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2008年9月19日 (金)

【京都便利堂】薩長同盟が倒幕の決め手

ありがとうございます。
京都便利堂でございます。

cameraここは京都御苑。

Gyoen

camera蛤御門(はまぐりごもん)です。

Hamagurigomon_2 

京都御苑への入り口はたくさんあるのですが、この門は、他の門と少し違います。

cameraこのように、門に傷跡があるのです。

Dangan

弾丸の跡のような丸い傷。
これは、幕末の時についた傷跡だそうです。

ここで、事件impactがあったのです。

「禁門の変」と呼ばれるその事件impact
長州藩の企てた恐ろしい暴挙を、ここで弾丸の跡が残るほど激しく争ってbombimpact食い止めたのでした。
食い止めたのは、御所の護衛に当たっていた、会津・桑名そして薩摩藩。


ん?薩摩?

確か、薩摩と長州が「薩長同盟」を組んで幕府を倒したのではなかったっけ?
なのに、薩摩と長州がここで争った
bombimpactpunchとはどういうことでしょう?

また、その「薩長同盟」が
明治維新のターニングポイントとして挙げられるのはなぜでしょうか?

時の流れを追いながらfoot、確認していきましょう。


foot幕末の動乱期に、徳川幕府の体制を維持しようとする勢力(佐幕派)と天皇を中心とする新体制の実現を目指す勢力(勤皇派)が激しく対立しますが、
保守層として一応まとまっている佐幕派に対して西国雄藩を中心とする勤皇派は、それぞれの思惑もあり、なかなか一枚岩にはなっていませんでした。
中でも特に力を持っていた薩摩藩と長州藩は、激しい主導権争いをする「犬猿の仲」poutannoyという間柄でした。

foot両藩の関係が決定的になったのは、黒船来航から10年後の1863年に起きた「文久の政変」というクーデターによって長州藩が京都から追われ、政治的に失脚してからです。

foot当時の長州藩は、どこよりも天皇に対する尊崇の念が強く、日本一の勤皇藩を自負していました。
そこで、大の外国嫌いであった孝明天皇の意として「攘夷」(外国を打ち払う)を実行するよう幕府に迫り、それができないことを口実に天皇を担いで倒幕の「錦の御旗」を挙げようとします
rock

footしかし、当の孝明天皇は、妹の和宮を嫁がせた第十四代将軍 徳川家茂を実の弟のように可愛がり、何とか幕府と協調して行こうという「公武合体」を目指していたため、長州藩の画策は全く意に沿わぬものでしたcoldsweats02

footこれを察知した薩摩は、朝廷における自藩の立場を確固たるものにすべく、事もあろうに佐幕派の会津藩と手を結び、天皇の詔勅(命令)を奉じて一気に長州藩を京都から追い払ってしまいますpunch

footこの政変をきっかけに自暴自棄となった長州藩は、京都の武力制圧を目論みますが、会合場所の池田屋を新撰組に襲撃されて計画が失敗する(池田屋騒動)impactと、
次に軍勢を京都御所に乱入させて天皇を国許に奪い去ろうという暴挙(禁門の変)
bombimpactに出た結果、
ついに朝敵(天皇に敵対するもの)の汚名を蒙り、幕府の征伐軍から攻められます。

また、国許の下関海峡で外国船を砲撃するという「攘夷」を独断専行で実行したため、イギリスなど四カ国連合艦隊からの報復を受けて瀕死の状態に陥り、止むなく幕府に降伏することとなります。

footそんな状況の長州藩を救おうと、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎が薩摩藩を動かしますdash
当時の薩摩藩は凶作のためriceball米が不足していましたが、長州藩は豊作でriceball米が余っていました。
そこに目をつけた龍馬が、長州から薩摩に
riceball米を売らせ、薩摩は公的にbomb武器が買えない長州に代わって外国から武器を購入し、長州に引き渡すという取引を持ちかけます。

foot藩を瀕死の状況に追い込んだ薩摩に対する長州の怨念は「恨み骨髄に達する」angry程であったに違い有りませんが、
この時、長州藩代表の桂小五郎は「たとえ長州が滅んでも薩摩が勤皇の志を引き継いでくれれば良い。米は無償で進呈する。」と言ったそうですshine
人間の感情を「経済」というフィルターを通して浄化しようとした龍馬の感覚も素晴らしいshineですが、それに応じた桂の度量にも驚きますhappy02

footこの結果、bomb最新兵器を手にした高杉晋作や大村益次郎らによる軍制の近代化に成功した長州藩は再び息を吹き返し倒幕派の一大勢力となります。
その後、幾多の困難がありましたが、龍馬、慎太郎の斡旋によって政変から3年後、薩長軍事同盟が成立したのです。

footその後、土佐藩、肥前鍋島藩などが加わって軍事力のバランスが大きく倒幕派に傾き、岩倉具視や大久保利通などの巧みな朝廷工作の成功もあって時代は明治維新へと加速して行ったのでした。

なるほど。
そんな流れがあって「薩長同盟」が結ばれ、それがターニングポイントとなって倒幕へと進んでいき、明治維新となったのですね。

上の写真cameraのように、今はのんびりした穏やかな空気の流れる京都御苑。
中は公園になっていますから、特定の場合以外は自由に出入りshoeすることができます。

ひとつ違えば、もしかしたらこの空気はなかったのかもしれませんねwobbly

今回のブログでひとまず幕末のお話しは終了ですend
色々と楽しんでいただけましたでしょうかhappy01

よかったら、これをふまえて、幕末月旦札で遊んでみてくださいねsign03

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投稿者 京都 便利堂 時刻 18時06分 学問・資格, 経済・政治・国際
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2008年9月17日 (水)

【京都便利堂】曼珠沙華・彼岸花……

ありがとうございます。
京都便利堂でございます。

もうすぐお彼岸ですね。
そろそろこのお花も見かけるようになるでしょうか。

Higanbana

曼珠沙華。彼岸花。
幾通りも呼び名のある、鮮やかな赤い色をしたお花ですが、お墓の周りなどでよく見かけます。
だからでしょうか。
見かけると、過去のことだというのに、亡くなった親族を思い出して悲しい気分weepが色鮮やかによみがえります。

花言葉も「悲しい思い出」weep

歴史上にも、悲しい思い出はたくさんあります。
幕末もそのひとつ。

今日は、そのお話を。。pen

clipまず、疑問なのですが、
現代の日本には傑出した政治家というものが少ないように思いますが、

幕末の諸藩では、どうしてあんなに数多くの人材shineを輩出することができたのでしょうか?

それは、当時、諸藩が競って文武両道に秀でた若者を江戸に留学させ、持ち帰った知識pencilや経験runを自藩の経営に役立てるよう努めていたからです。

学問塾としては、もとは幕府直属の武士団である旗本の子弟を教育する官立機関で、
後に諸藩の子弟も入門できるようになった「昌平坂学問所」(東京大学の前身)を筆頭に、
吉田松陰や高杉晋作、三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎などが入門した安積艮斎(あさかごんさい)の儒学塾や佐久間象山の蘭学塾などがあり、
剣術修行の塾としては、shinecrown最高峰として憧れcrownshineの存在だった「江戸三大道場」と言われるcrown北辰一刀流 千葉道場「玄武館」、crown神道無念流 斉藤道場「錬兵館」とcrown鏡心明智流 桃井道場「士学館」がありました。

これら道場には様々な若者が集まり、藩の垣根を越えて交流を深めたり情報交換をしたりしていましたが、
突然、間近で黒船来航
shipdashという驚天動地の体験をし政治家も学者も巻き込んで沸騰するspa議論と混乱の中で何の解決もできない幕府の実態を目にした彼らは、
切実な危機感と若者特有の純粋さをもって激論
impactを戦わせつつ自分達の主張を形作って行きます。
あたかも昭和の時代、60年代から70年代にかけての学生運動impactのような熱気spaだったのではないでしょうか。
因みに千葉道場(「玄武館」ではないが)の塾頭は坂本龍馬、斉藤道場の塾頭は桂小五郎、桃井道場の塾頭は武市半平太がそれぞれ勤めており、この三大道場は差し詰め現代の早稲田、慶応、東大といった存在だったようです。

しかし、やがてそれぞれ出身藩の立場や受けてきた教育pencil、経験などの違いから、彼らの行動も別なものとなって行きますsad
ship密航して外国を見に行こうとする者、annoy力づくで外国人を打ち払おうとする者、rock何としても幕府を守ろうとする者、punch又倒そうとする者。
更に彼らがそれぞれの藩に帰ってからとった行動はいずれも過激なもので、
藩全体の考えを自分達の思想に染めようと藩内でクーデターを起こしたり、脱藩して諸国を巡り、同じ考えの者達の力を糾合しようとしながら、やがて朝廷(天皇)の権威を利用しようと京都に集まってきますrunhorse

そこで対立する勢力を「天誅」thundershadowというテロによって抹殺し始め、幕府方はそれを検挙する為に新撰組や見廻り組などの特別警察を組織して取り締まろうとします。
新撰組にしてみれば「勤皇の志士」なんていうのは政府転覆を企む過激派にしか見えなかったろうと思います。

新撰組の幹部も江戸で「試衛館」という道場を開いていた者達でした。
もっとも三大道場とは違い「天然理心流」という三多摩の田舎剣法で、真剣を使った試合には滅法強いが、竹刀での勝負には弱く、
道場破りが来ると、斉藤道場の塾頭、桂小五郎を呼んで変わりに立太刀合ってもらい、追い返していたそうです。
ですから、おそらく桂小五郎と近藤勇などは、親しく時勢を語り合った仲
happy01ではなかったかと思われます。

そんな関係にあった二人も、時を隔てて京都で再会すると命のやり取り
sadをせねばならぬ敵同士となっていました。

幕末には、そのように巡り合わせが生んだ悲喜劇が沢山あるのですが、
いずれにしろ数多くの有為な青年達が殺し合う悲しい時代だったのです
weepweep

それにしても、当時の剣術は様々あったのですね。
その中でも最高峰と呼ばれる剣術「北辰一刀流」は、heartspade幕末月旦札diamondclubの役にもなっていますよ。
一体誰が北辰一刀流なのsign02

このように、役の内容に興味を持っていただきながら遊んでいただくとより楽しんでいただけると思いますwink

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投稿者 京都 便利堂 時刻 16時16分 学問・資格, 経済・政治・国際
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2008年9月12日 (金)

【京都便利堂】どうなってるの?月の裏側 〜中秋の名月〜

ありがとうございます。
京都便利堂でございます。

明後日の日曜日、9月14日は中秋の名月fullmoonshineです。
月齢は14なので、月齢15の満月のひとつ手前。
下の写真は昨年の9月27日、満月の日のもの。
晴天であれば、今年はこれに近い、ほとんどまるいお月様fullmoonを見ることができるでしょう。
「春は花cherryblossom」に対して「秋は月moon3」と言われるくらい、この季節は美しいお月様を見ることができます。

Moon_2

さて、そんな綺麗なお月様fullmoonshineですが、ずっと気になっていることがあります。

それは、裏側。
一体どうなっているのでしょう?


まず、大切なこと
は、

flair地球からは、うさぎがお餅つきをしているあの面しか見えていません。flair

どうやら、地球からはその反対側の面を見ることができないらしいのです。


そうなると、見てみたいのが人情です
smile
探しました。




月の裏側は、コチラsign01




そうなっていたのですね〜。

このブログの冒頭に載せたあの写真の月とは全然違いますね。

まだまだ未知で不思議なことの多いお月様night
気になる存在です。

さて、京都便利堂ではfullmoon月の住人と言われているうさぎの可愛いアイテムがありますよ!
世界でもかなり有名なうさぎです。
かわいいものがたくさんあるのでご紹介するものを迷いますが、手軽にぽんと押して楽しめるこちらはいかがでしょうか?
どうぞご覧くださいませ!!




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投稿者 京都 便利堂 時刻 18時18分 趣味
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2008年9月10日 (水)

【京都便利堂】日本国分断の危機にあった幕末

ありがとうございます。
京都便利堂でございます。

maple秋の気配を少しずつ感じるこの頃、夕暮れの空がとても綺麗で、つい見入ってしまいます。

Okinawa

cameraこちらは、沖縄の海waveの夕暮れにさしかかる頃。

今、日本国として存在する沖縄ですが、昭和の時代には、パスポートを持っていかなければならない時期がありました……despair

このように分断されたことのある日本ですが、実は、幕末の頃にもその危機があったのですcoldsweats02

それでは今日はその頃のお話しを……pen

幕末動乱期のアジア情勢は、イギリスやフランスなど列強といわれる大国が利権を求めて植民地争奪戦impactを繰り広げる弱肉強食の世界でしたbomb
清国(満州族の中国王朝)はイギリスが仕掛けた理不尽極まりないアヘン戦争敗戦の結果、香港の割譲を初めとする屈辱的な不平等条約を結ばされ、民衆は外国人から召使のようにムチでこき使われるという惨めな境遇に陥ってしまいますwobbly

次に列強が目をつけたのはshipdash黒船来航以来、政治的混乱typhoonの真っ只中にあった日本でした。
アメリカとの条約締結以降、各国の外交官が日本に駐留し、それぞれの国益dollarshineのために暗躍しますが、日本では高い知識と戦闘能力を持つ武士階級が支配していたため、清国に対しては大いに有効であった武力による「恫喝外交」punchimpactが通用しないと判断し、
国内で激しく対立する幕府方、倒幕方の勢力を、それぞれに援助dollarするという形で影響力を及ぼそうと考えます。

フランスは幕府方に最新式の軍制を導入したり横須賀に製鉄所を建造して近代化を図る一方、
イギリスは薩英戦争の結果、互いの実力を認め合う事で逆に親密になった薩摩藩や長州藩を軍事的・経済的に援助し、
かつてのベトナム戦争時における米中のように日本で英仏の代理戦争bombが繰り広げられつつある状況でした。

もしも、このような列強の思惑どおりに内戦が拡大していたら、おそらく日本は南北ベトナムや東西ドイツ、韓国・北朝鮮のように東西二国に分断されていたのではないでしょうかweep

実際、幕府の高官が北海道(当時の蝦夷地)を担保にフランスから軍事資金dollarを調達しようとしていた形跡もあり、
今頃、札幌ラーメン
noodleやジンギスカンariesを食べるにはパスポートが必要になっていたかも知れませんshock

ところが、当時幕府の最高権力者である第十五代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」
つまり幕府を解散して政権を朝廷(天皇)に返上してしまったのです。

慌てたsweat01のは列強諸国です。
応援すべき幕府、倒すべき幕府が突然消滅してしまったのです。
フランス公使は必死で慶喜にbomb戦争継続を要請しますが、彼は決して朝廷に対する恭順(謹慎)の姿勢を崩そうとしませんでした。

この結果、列強は日本の内戦に関与する名目を失い、国家分断の危機は危ういところで回避されたのですhappy02heart04
後の評価は分かれますが、二百六十年以上続いた江戸幕府を自らの手で閉じた徳川慶喜の大英断は、この一点で賞賛に値するshineと言っても良いのではないでしょうか。

徳川慶喜も含め、この時代の人物をdiamondトランプclubにした幕末月旦札ですが、
1つのheartトランプspadeで大人数遊んでいただけるようにと、役一覧をダウンロードできるようにしました。
どちらかのページよりダウンロードしてお使いください。

■便利堂新着情報

■幕末月旦札(京都便利堂老舗モール店)



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投稿者 京都 便利堂 時刻 13時13分 学問・資格, 経済・政治・国際
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2008年9月 5日 (金)

【京都便利堂】薩英?日英?戦争のこと

ありがとうございます。
京都便利堂でございます。

Bakumatsugettanfuda_2

ご好評いただいておりますheartspade「幕末月旦札」diamondclub、来週頃に2刷りが上がってくる予定でございます。
お待ちいただいている皆様、ご迷惑をお掛けいたしまして申し訳ございません。
今しばらくお待ちくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

それでは、本日も幕末のお話しを少しpen

学生の頃、この時代のことを習ったときから不思議に思っていたことがありました。

「生麦事件」がきっかけで起こった戦争、「薩英戦争」。

なぜ日英戦争ではなく、薩英戦争と呼ぶのでしょうか?

薩摩藩とイギリスとの戦争ですから、その呼び名でいいのかもしれませんが。。
なぜなのでしょうか?

まずはことの起こりの生麦事件について。
この事件の舞台は、東海道・武蔵国生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)あたり。
江戸から京の都へ向かう、薩摩藩主の父・島津久光の大名行列が通過していました。
その行列を、イギリス人貿易商・リチャードソンが乗馬のまま横切ってしまいます。
来日して日の浅かった彼らは、大名行列と行き交う時の作法(下馬して道端に寄り、道を譲る)を知らなかったそうです。
しかし、当時の日本の国法では、行列を乱した者は無礼討ち。
それにより、リチャードソンは絶命します。

これに怒ったイギリスは、幕府と薩摩藩に対し、賠償請求dollarを行います。
幕府は支払いに応じますが、薩摩藩は応じません。

元々、幕府は各国の公使館に東海道通行の自粛を通達しており、行列を乱した者を切り捨てるのは、当時は合法だったからです。

このように薩摩とイギリスの言い分は分かれて、それが原因でおこった戦争が「薩英戦争」なのです。

そこで気になるのは、生麦事件の賠償請求が幕府と薩摩藩に分けてされていてかつ、幕府は支払いに応じているのに、なぜ戦争を?

それは、当時の藩はそれぞれひとつの独立した国で、今の日本のような中央集権国家ではなかったからです。

当時の藩と現在の都道府県とは全く違うもなのです。

ですから、日本全体ではなく、薩摩という国とイギリスという国の戦争だったから「薩英戦争」なのです。

今のような中央集権国家になったのは、明治維新の後。
廃藩置県が行われてからのことです。
明治維新は、お殿様がいなくなった日本の幕開けsunでもありました。

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投稿者 京都 便利堂 時刻 15時00分 学問・資格, 経済・政治・国際
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2008年9月 3日 (水)

【京都便利堂】幕末の魅力2

ありがとうございます。
京都便利堂でございます。

9月に入りましたね。
もうそろそろ秋の気配?かと思いきや、8月末の涼しさが嘘のように暑い日々の京都です。
けれど、やっぱりmaple秋の気配は少しありました。
night日が暮れるのが早くなってきています。

Yuugure

それでは、今日も江戸時代の暮れ、幕末のお話しにどうぞお付き合いくださいませ。

日本にも、幕末の頃、革命があったのはご存じですか?

明治維新と呼ばれる革命です。
それは一体どんなものだったのでしょうか?

明治維新は、世界的に見ても稀有の「無血革命」と言われます。

欧米諸国やアジアにおいて見られる革命は、多くの無辜(むこ)なる人々の犠牲の上に成し遂げられるのを常としているのに対して、
明治維新は確かに鳥羽・伏見、上野の彰義隊、北越・会津攻防、五稜郭などいくつかの凄惨な戦いはありましたが、
これらは武士という支配階級における旧幕府方と新政府軍との戦であって、闇雲に一般市民を流血に巻き込んだようなものではありません。

諸外国における革命の多くは、現政権を力で倒し、支配者たる地位を己のものとする、
つまり「現王朝の名(命)を革(あらた)める)」のが唯一の目的であるため、手段や相手を選ばず民衆を武力で制圧して行きました。

幕末から戊辰戦争にかけ中心となった薩摩、長州、土佐、肥前の各藩主の中には、関ヶ原敗戦以来の怨念を晴らし、徳川家に代わって将軍になるつもりだった者もいるようですが、
実際に維新回転を主導していたのは支配階級から程遠い身分低き若者たちでした。

吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、桂小五郎、高杉晋作など、皆20代から30代sign03という年齢で、よくぞあのような大仕事ができたものだと思います。

又、彼らとは反対の立場に立った近藤勇や土方歳三にしても同年代、
年長者の勝海舟でさえ40代であったことを考えると、

いくら当時の人間が老成していたとはいえ、
現代人からすると驚きですw(゚o゚)w


彼らは、方法論に違いこそあれ目的は、日本国を諸外国の脅威から守り、外圧に屈しない強い国づくりをするという一点で共通しており、決して自分たちが覇権を握るために命を賭けたわけではありませんから、一般人を巻き込むような無茶なことをするわけがありません。
(池田屋騒動のとき集まった一部浪士にはそのような動きもあったが新撰組により未遂に終わる)

彼らが活躍したのは黒船来航による世情不安の中、経済も低迷しテロが横行するなど極めて暗い時代でしたが、
それぞれに家族愛や友情、修行、恋愛など目いっぱい青春しながら真剣にこの国の将来を考えていたのです。

このような短い期間だけれど、キラリshineと光る彼らの一途な生きざまが、平和ボケした我々現代人の心を強く惹き付けて止まないのです。

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投稿者 京都 便利堂 時刻 17時17分 学問・資格, 経済・政治・国際
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